2月28日、木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し、新府城(韮崎市)に逃亡した。勝頼を追う織田信忠は高遠城陥落の翌日、本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払い、木曾義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向う。3月1日、武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じ、織田側に寝返った。3月4日、家康は梅雪を案内役として甲斐に侵攻を開始した。
翌3月5日、織田信長は安土城を出発。3月6日には揖斐川に到達。ここで嫡男・織田信忠から高遠城主仁科盛信の首が届き、これを長良川の河原に晒した。
3月3日、武田勝頼は新府城で真田昌幸の岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)に逃亡するか、小山田信茂の岩殿城(大月市)に逃亡するか軍議を開いた。昌幸は岩櫃城が要害であることを説明して岩櫃城行きを勧めたが、信茂が、岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを力説、最終的に勝頼は昌幸よりも、一族の信茂が支配する岩殿行きを決意する。そして、未完成の新府城に火を放つと、岩殿城目指して逃亡した。
1582年3月7日に信忠は甲府に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えて勝頼の一門・親類や重臣を探し出して、これを全て処刑した。この時に処刑されたのは一条信龍・諏訪頼豊・武田信廉など。
3月9日に勝頼とその嫡男の武田信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(山梨県大月市)で小山田信茂に攻撃され、岩殿城入城を拒まれる。これには諸説あり、小山田信茂は武田家と主従関係でなく盟友関係にあり、郡内領を有する一大名という考え方から、戦禍を恐れる領民の反対などを受け、領地を守るためにとった行動であるという説や、実は小山田信茂が笹子峠から勝頼を攻撃したという事実はないという説もある(笹子峠から攻撃したのは織田軍であるとも)。いずれにせよ、勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(山梨県甲州市大和町)を目指して逃亡した。逃亡の際、家宝の旗・楯無鎧を塩山(甲州市)の寺社に隠し、難を逃れさせた。
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3月11日、徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。同日、勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せた。また、安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死した。勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退した。
しかし、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・北条夫人は自害し、長坂光堅、土屋兄弟、秋山紀伊守らも殉死した(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても『甲陽軍鑑』が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門甲斐武田氏嫡流は滅亡した。